ヒルネクロコップの日記

ペルーに2年ほど住んでいたスペイン語学習者です。 読書や旅行の記録、ラテンアメリカのニュースについて書いていきたいと思います。2023年秋からメキシコに来ました。

『百年の孤独』以外のガルシア=マルケスの代表作とは?

以前、コロンビアに滞在していたときのこと。

ガルシア=マルケスの話をすると、多くの人がコレラ時代の愛』は読んだ?と聞いてくる。

コロンビアでは『百年の孤独』に次いで人気なのは『コレラの時代の愛』だという。

カリブ海の街カルタヘナが舞台となっている愛の物語だというのも人気の理由だろう。

コレラの時代の愛』の舞台となったコロンビア・カルタヘナ

日本では「ガルシア=マルケスの代表作」を挙げるとき、百年の孤独』と『族長の秋』の2作が言及されることが多い気がする。

あるいは予告された殺人の記録もけっこう人気がある。

 

そのためコロンビアでコレラの時代の愛が非常に人気だと知ったときはちょっと意外な感じがした。

 

百年の孤独』は飛び抜けた超代表作だとして、世界的にはガルシア=マルケスの他の代表作は何だと思われているのだろう?

彼の「二大作品」や「三大作品」を選ぶとしたら何になるのだろうか?

と思って少しだけ調べてみた。

 

百年の孤独』『大佐に手紙は来ない』『族長の秋』『コレラの時代の愛』が四大傑作?

コロンビアの作家・新聞記者のエクトル・アバッド=ファシオリンセは、雑誌「ユリイカ」の中で次のように評価している。

ノーベル文学賞受賞の前には、小説分野における少なくとも三つの傑作がある。『大佐に手紙は来ない』『百年の孤独』『族長の秋』である。(中略)ノーベル賞後には、私の見るところ、受賞以前の水準に達している作品はひとつしかない。コレラの時代の愛だ。」

(エクトル・アバッド=ファシオリンセ「書く魂」、久野量一訳、「ユリイカ」2014年7月号)

 

つまり四大作品として百年の孤独』『大佐に手紙は来ない』『族長の秋』『コレラの時代の愛を選んでいる。エクトル・アバッド=ファシオリンセは国内外の数々の賞を受賞している書き手なので、信頼できる批評と言っていいだろう。なんとなく評価が高いと思っていた『予告された殺人の記録』が入っていないのは少し意外だった。

 

ガルシア=マルケス本人は『百年の孤独』『族長の秋』が人生の目標だった

ラテンアメリカ文学研究者の寺尾隆吉さんは著書の中でこのように書いている。

「若くから人生の目標としてきた二作、百年の孤独』と『族長の秋』の執筆を終えたガルシア・マルケスは、呪縛から解かれたように急速に文学への関心を失い、ジャーナリズムや政治活動に打ち込んだ。」

(寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』2016年)

つまり、ガルシア=マルケス本人はこれらを自分の中の二大作品とみなしていたようだ。

ちなみにラテンアメリカ文学に詳しい作家のヤマザキマリさんは『百年の孤独』よりも『族長の秋』が好きだと言っていたし(「ユリイカ」2014年7月号)、今回文庫版の解説を書いた筒井康隆さんも『族長の秋』を推しているという。

『族長の秋』は重厚でけっこう読みにくい独裁者小説なのだが、日本では文庫になっているからなのか、熱心な読者が多いようだ。

 

世界的な選書では『百年の孤独』と『コレラの時代の愛』?

2017年、『百年の孤独』出版から50年を記念して、スペインの出版社がガルシア=マルケス作品の豪華新装版を出版した。

そのときに選ばれたのは百年の孤独』と『コレラの時代の愛の2冊だ。

コレラの時代の愛』(左)と『百年の孤独』(右)の50周年特別版

さらに2002年にノルウェー・ブッククラブが選んだ「世界傑作文学100」に入っているのも百年の孤独』『コレラの時代の愛の2作である。

Bokklubben World Library - Wikipedia

この選書は世界54か国の100人の作家が選んだ100冊で、海外文学について話すときによく引用されているものだ。かなり信頼できる選書だと思う。

 

コレラの時代の愛』は、舞台となったコロンビアだけでなく、世界的にも『百年の孤独』に次ぐ評価がされていると言っていいだろう。

ちなみに『コレラの時代の愛』は2008年にアメリカで映画化もされている。

 

百年の孤独『大佐に手紙は来ない』『予告された殺人の記録』を選ぶ評価も

他の評価も見てみよう。

スペイン紙「エル・ムンド」が選んだ「20世紀のスペイン語作品100冊」に入ってるのは、百年の孤独『大佐に手紙は来ない』『予告された殺人の記録の3冊だ。

Anexo:Lista El Mundo de las 100 mejores novelas en español - Wikipedia, la enciclopedia libre

ここに来てようやく『予告された殺人の記録』が登場。

実はガルシア=マルケス自身も「『予告された殺人の記録』が最高傑作」と言ったことがあるらしい(いま手元にないのだが文庫版のあとがきに書いてあるようだ)。

意外なことに、『族長の秋』は国際的な選書ではあまり名前が出てこない。

 

簡単なまとめ

ざっと調べただけではあるが、『百年の孤独』以外に世界的に評価が確立されている作品としてコレラの時代の愛がまず挙げられるだろう。

それに続くのが『大佐に手紙は来ない』予告された殺人の記録』。

『族長の秋』は玄人好みで、日本で非常に人気があり、ガルシア=マルケス自身が書きたかった作品、という位置づけだろうか。

 

もちろん僕が軽く調べた程度なので(しかも手元にある資料がかなり限られているので)間違っているかもしれない。詳しい人に会ったら聞いてみたい。

 

ちなみに僕がこれまでに読んだガルシア=マルケス作品は、『百年の孤独』『族長の秋』『予告された殺人の記録』『エレンディラ』『落葉』『わが悲しき娼婦たちの思い出』だ。

恥ずかしながら『大佐に手紙は来ない』『コレラの時代の愛』はまだ読めていない。

日本に帰ったらこの未読の2冊を読んで自分なりの評価をしてみたい。

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『百年の孤独』が生まれた小さな家

前回の記事では、ガルシア=マルケスが『百年の孤独』で得た資金で建て、亡くなるまで暮らした家について書いた。

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今回、ついに彼が実際に『百年の孤独』を書いた家を訪問することができた。

こちらもメキシコシティの閑静な住宅街にある。

外観

門を入った中庭

 

家の中に入ると、小さな応接間のようなスペースがあり、ガルシア=マルケス肖像画が飾ってある。

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反対側の壁には、いくつかの写真。

管理人の方によると、ガルシア=マルケスの隣に写っているのはこの家の大家さんで、『百年の孤独』を書いている間、家賃を肩代わりして彼をこの家に住まわせてあげていたのだという。

ガルシア=マルケス(左)と当時の大家さん(右)

 

そして、こちらの小さな部屋が、実際に『百年の孤独』を執筆した場所。

机とタイプライターがあるだけの質素極まりない部屋だ。

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ガルシア=マルケスは1965年〜67年までこの部屋にこもり執筆を続けたそうだ。

当時、ガルシア=マルケスにはすでに子どもが二人いた。

家を駆け回る子どもたちの声が聞こえないよう、ドアを閉めて執筆に集中していたという。

その後、世界に絶大な影響をもたらすことになる小説がこの部屋から生まれたのかと思うと、とても感慨深い。

百年の孤独 1967年」と書かれている

ラテンアメリカ文学研究者の柳原孝敦さんは、当時の様子を次のように書いている。

1961年にメキシコ市にやって来たガブリエル・ガルシア=マルケスは、この街で映画の脚本などの仕事をしていた。65年のある日、仕事仲間のカルロス・フエンテスと港町アカプルコに向けて高速道路を走っていた彼は、それまでに書きためた中短編の集大成となる長編小説の啓示を得たと言われている。

それから18ヵ月間にわたって家に籠もりきりになった作家が、毎日6時間、主に午前中に執筆し、完成させたのが『百年の孤独』(1967)だ。これを書いている期間、作家は他の一切の仕事を断り、雑談したりその日書いた原稿の朗読を聞いたりするために夜ごと訪ねてくる友人たちの手土産に頼って生活した。妻のメルセデスは借金をしたりツケで食料品を手に入れたりして息子たちを養い、家賃も滞納したという。家賃を滞納しながら住み、後に二十世紀の文学史を書き換えるほどの大きな影響力を及ぼす大作を書いたこの家というのが、コロニア・サン・アンヘル・インの物件だ。

柳原孝敦『メキシコDF』(2019)190-191頁

家賃を肩代わりしていた大家さんは、こんなに偉大な作品が生まれようとしているとは夢にも思っていなかっただろうが、今振り返ればとても先見の明のあるお方だ。

 

実は普段この家は一般公開されていないのだが、今回幸運なことに中を見せてもらうことができた。

この家を管理しているのは「メキシコ文学財団・百年の孤独の家」という団体で、僕はこの団体が主催する文学系イベントをネットで見つけ、行ってみることにした。

だが実際にはこのイベントはオンラインのみの開催で、この家で実施されているわけではなかった。

しかしこの家の管理人の方が「せっかく来たのなら」とご厚意で中を案内してくれたというわけだ。

 

この家の2階には、現在「メキシコ文学財団」が奨学金を出す作家か研究者の方が住んでいるそうだ(何と説明されたかちゃんと覚えていない)。

その方の迷惑にならないよう、今は一般の人の来訪を受け入れていないという。

 

この家を訪れたのは6月25日(日本時間26日)で、偶然にも日本で『百年の孤独』の文庫版が発売された日だった。

管理者の方に「今日、日本で新たな装いの『百年の孤独』が発売されますよ」と伝えると非常に喜んでくれた。

 

わずか10分ちょっとの訪問だったが、メキシコシティの素敵な思い出が一つ増えた。

 

ガルシア=マルケスが『百年の孤独』を書いたこの家は、メキシコシティ南西部、アルバロ・オブレゴン地区のサン・アンヘル・インという住宅地にあります。

maps.app.goo.gl

管理している「メキシコ文学財団・百年の孤独の家」のFacebook

https://www.facebook.com/casaestudiocien/

 

ガルシア=マルケスが亡くなるまで暮らした美しい家についてはこちらからどうぞ。

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ガルシア=マルケスの家に行ってきた ~『百年の孤独』がヒットして建てられた美しい家~

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今年はガブリエル・ガルシア=マルケスが何かと話題になる年だ。

3月には遺作となる『出会いはいつも八月』が出版され、今月末には満を持して『百年の孤独』の文庫版が日本で発売される。

そしてNETFLIX百年の孤独の映像化が進められていて、年末に公開されるという噂だ。

今年で没後10年ということで様々な企画が進んだのだろう。

 

そんな彼が亡くなるまで30年以上暮らした家がメキシコシティにある。

先日、その家を訪問する機会に恵まれた。

邸宅はメキシコシティの南部に位置し、メキシコオリンピックスタジアムのすぐ裏手、閑静な高級住宅街にある。

ガルシア=マルケスが住んでいた家

家を案内してくれたのは孫のエミリアさんだ(ガルシア=マルケスの次男ゴンサロさんの娘)。

女優としても活躍された方で、現在はこの家の管理をしつつ、こうして訪問客の対応やイベントの開催をされている。

ガルシア=マルケスの孫のエミリアさん

エミリアさんによると、この家は百年の孤独がヒットして得たお金で建てられたのだそうだ。

ガルシア=マルケスはコロンビア出身だが、1960年代からメキシコシティに住み、この街で百年の孤独(1967年)を書いた。

エミリアさんも正確なことはわからないらしいが、おそらくこの邸宅を建てたのは1981年のことだと思われる。

以降、2014年に亡くなるまでここで暮らし続けた。

ガルシア=マルケスの家の中庭

百年の孤独を執筆した当時の家は少し離れた別の場所にある。

※追記:『百年の孤独』を書いた家についても記事にしましたのでこちらからどうぞ。

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書斎

まず案内されたのが書斎。

大きな窓から太陽光が入るとても美しい部屋だ。

本棚には世界各国の文学作品、ガルシア=マルケス自身の著書の外国語への翻訳などが並べられている。

親交のあった田村さと子さんの本もあった。

本棚には他に、彼がノーベル文学賞を受賞したときの写真、そしてアルゼンチンの作家ルイス・ボルヘスの写真も飾られていた。

中でも1番目立つ位置に大きく掲げられていたのはチェ・ゲバラの写真だ。

彼に関する本も何冊か並べられている。

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ガルシア=マルケスフィデル・カストロの間には親交があり、キューバ革命を強く支持したことはよく知られている。

だがチェ・ゲバラとはどのような関係者だったのだろうか。

ラテンアメリカ研究者の太田昌国さんは以下のように書いている。

コロンビアのノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスゲバラと同時代人で、生年も同じだ。

その代表作『百年の孤独』はゲバラが死んだ67年に公刊された。ゲバラの死を知ったマルケスは、明らかにゲバラへのオマージュとして、見事な短編「この世でいちばん美しい水死人」を書いた。その死は、立場を超えて、多くの人びとに悼まれた。

(太田昌国「チェ・ゲバラ没後40年」  現代企画室ウェブサイトより)

https://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2007/guevara.html

 

執筆部屋

ガルシア=マルケスはこの部屋で多くの作品を生み出した。

朝食をとってから午後2時半くらいまで執筆。

昼食後は作品の推敲や、友人との会合に当てていたらしい。

机に置かれているマックのパソコンはある時期に執筆に使っていたものだそうだ。

他にも何台かパソコンがあったそうだが、他の手書き原稿などとともに、今は米テキサス大学オースティン校の「ハリー・ランサムセンター」という博物館に所蔵されているらしい。

(メキシコよりもアメリカの大学の方が保存・管理がちゃんとしているという理由で遺族が預けたとのこと…。)

執筆部屋は中庭の景色が太陽に映えて美しい
家族との時間

孫のエミリアさんは、午後によく本屋に一緒に出かけたり、カフェに行ったりアイスを食べたりしたのが美しい思い出として残っていると話してくれた。

家には、妻のメルセデスさんの銅像のほか、両親、子どもなど家族の写真が多く飾られていた。

メルセデスさんとのペアの銅像

子どもたちとの写真

両親の写真
思い出の人々の写真

家族の他にも、さまざまな大物と写った写真が並んでいた。

アメリカのクリントン大統領、オバマ大統領、国連のアナン事務総長など。

メキシコの大作家フアン・ルルフォと一緒の写真もあった。

米・クリントン大統領と

米・オバマ大統領と

国連・アナン事務総長と

フアン・ルルフォ(右)と
リビング

テキーラウイスキーが特に好きだったというガルシア=マルケス

このリビングに友人を招いてよくパーティーをしていたという。

リビングの隣にある食卓 訪問したときには黒猫がいた
晩年

ガルシア=マルケスは晩年、アルツハイマーを患った。

そんな中でも書き続けたのが、先日発売された『出会いはいつも八月』だ。

日本では「未完の作品」として紹介されているが、孫のエミリアさんは、 最後まで書き切ったあと推敲を少し残して亡くなってしまった、完成した作品だと思っていると話していた。

 

さらにエミリアさんが印象に残っているのが、ガルシア=マルケスは音楽を聞くのがとても好きで、アルツハイマーにもかかわらず最後の日々まで音楽のことは明晰に話していたことだという。

CDのコレクション
最期を迎えた部屋

ガルシア=マルケスはこの家を終の住処とし、2014年にここで亡くなった。

右手の建物の2階にあるのが彼の寝室で、妻のメルセデスさんに見守られながら静かに亡くなったという。

 

この家は、ガルシア=マルケスがどんな生活を送っていたかが肌で感じられる貴重な場所だ。

メキシコシティを訪れる文学好きにはぜひ訪問してほしい。

 

訪問するには

最寄り駅はメトロブス1号線のドクトル・ガルベス駅。徒歩だと25分、ウーバーだと10分ほど。

maps.app.goo.gl

インスタのこちらのアカウントから孫のエミリアさんに連絡をとり、訪問日時を予約。

英語・スペイン語可。一般500ペソ、学生350ペソ。

https://www.instagram.com/casagabrielgarciamarquez

 

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メキシコ大統領選の投票所に行ってきたらメキシコっぽくて面白かった

今週の日曜(6月2日)はメキシコの大統領選挙の日だった。

与党(MORENA)のクラウディア・シェインバウム候補が当選し、メキシコ史上初の女性大統領が誕生する歴史的な日となった。

当選したシェインバウム候補
公式ツイッターの動画より(https://twitter.com/Claudiashein

僕は選挙がどんな感じで行われるのか興味があり、下宿先のホストマザーに頼んで投票所まで着いていかせてもらった(もちろん僕に投票権があるわけではない)。

実はこの日は大統領選だけでなく、メキシコシティ市長、シティ内の地区長、上院議員、下院議員もまとめて選ばれる。

ほかの州だと、州知事や地方議員も選ばれる。

メキシコ全土で実に2万以上のポストがこの日で決まるので、選ぶ方も選ばれる方も大変な一日だ。

 

投票に着いて行って、いくつか「メキシコっぽいなあ」と感じたことがあったので書いておこうと思う。

 

近所の人たちと投票所を探す

まず、家を出て投票所まで歩いて向かう途中、ホストマザーのご近所さんたちも歩いていたので合流して向かうことになった。

道行く人が次々と合流し、結局10人くらいのグループになった。

だが面白いことに、誰も投票所の正確な場所を知らず、あっちだこっちだと議論しながら辿り着いた。

目的地をあまり調べずに家を出てしまう適当さと、顔見知り程度の人たちと仲良く投票所に向かうコミュ力の強さが印象に残った。

 

投票所は一般家庭

投票所につくと、そこは一般の家のガレージだった。

選挙管理委員会の2人と、この家の住人、そして近所の住人たちで運営されていた。

学校など公共の場所もあるらしいが、こういう一般家庭が投票所になることも多いらしい。

そして運営を手伝う住人には政府からお金が支払われるらしい。

 

なかなか始まらない投票 伸びていく行列

僕たちは投票開始時刻の朝8時に到着した。

だが投票所の準備は整わず、結局開場したのが1時間後、ホストマザーたちが投票できたのは2時間後だった。

投票所には机が4つしかなく、1人につき5つの投票を行うので、こんなので行列が解消できるのかと心配になった。

 

並んでいる人たちと仲良くなる

列をつくって待っている途中、見ず知らずの人同士でも仲良くなって話に花を咲かせてしまうのはいかにもメキシコっぽい。

僕も2時間一緒に並んでいたのだが、周りの人とおしゃべりしていたので、もちろん疲れたけど、楽しかったという記憶の方が強い。

 

「投票の秘密は守られます」

周りの人が話していて印象に残った言葉は「Tu voto es libre y secreto」(投票は自由で秘密は守られる)。

普通の会話の中でも何人か言っていたし、張り紙もしてあった。

過去に投票の監視があったからなのか、現在のナルコ関係の脅迫とかなのか、聞き忘れてしまった。

「投票は自由で秘密は守られる」

投票は家族の団らんイベント

投票が終わって腹が減ったので、近くのカフェ、レストラン、ショッピングモールなど回ってみたが、どこも家族連れで満員で入れなかった。

メキシコに来て半年経つが、こんなに近所のショッピングモールが混雑しているのは初めて見た。

選挙が家族やご近所との交流イベントになっているのは日本と違うなあと感じた。

投票が終わった人でごった返すショッピングモール

 

結果を確かめるため投票所をはしご

メキシコでは夜8時に投票が締め切られたあと、各投票所で集計が進められる。

そして投票所の扉に、ローカルの開票結果が張り出される。

夜9時とか10時になると、投票所の前に結果を見に来た人たちの人だかりができる。

人々は一つの投票所だけでなく、スタンプラリーのように複数の投票所を回って自分の住んでいる地域の結果を確かめ、友達や家族と共有する。

なんかハロウィーンか何かのイベントみたいで楽しいし、民主主義が機能しているとも感じる。

国立宮殿前で勝利演説をするシェインバウム候補
公式ツイッターの動画より(https://twitter.com/Claudiashein

結局、選管が速報を出してシェインバウム候補の大勝が発表されたのが夜中の12時くらい、彼女が国立宮殿前で勝利演説を始めたのが午前1時すぎだった。

こうして、一日中お祭りのような感じで時間が過ぎていった。

 

ペルーでも目撃した大統領選挙

メキシコで大統領選挙があるのは6年に1度だ。

たまたまその日をメキシコで目撃することができてとても幸運だった。

そういえば僕は2021年のペルーの大統領選挙(ケイコ・フジモリvsペドロ・カスティージョ)も現地で見ることができた。

このときは結果が僅差だったので揉めに揉めて、5日間か1週間くらい正式な結果が出なかった記憶がある。

ペルーも5年に1度しか大統領選は巡ってこないので、僕は選挙運があるのかもしれない。

次はどんな選挙が見られるのだろう。

 

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移民施設で出会った印象深い人々について

移民支援のボランティアに行った話の続き。

支援団体パトロナスには、野獣列車への食料支援だけでなく、もう一つ重要な役割がある。

それは「宿泊場所の提供」だ。

パトロナスの施設には合計25人ほどが宿泊できるスペースがあり、メキシコから北を目指す移民たちがここへ一時の休息を求めてやってくる。

パトロナスでは彼らに無料で朝昼晩の食事を提供し、希望すれば長期間ここにいることもできる。

僕がいた一週間の間にも7人の移民がここに滞在し、彼らとゆっくり話をすることができた。

移民用の宿泊施設

宿泊施設に併設されたキリスト教のチャペル
人数が多いときはここにも泊まることができる

洗濯スペース
移民の変化 表情が柔らかに

移民たちが最初にパトロナスの門をたたくとき、みんな独特のオーラをまとっている。

口数は少なく、表情はこわばり、緊張感をまとい、目がギラギラしている。

それだけ周囲に警戒しながらここまで歩いて来たのだろう。

それがこの宿泊施設で数日過ごすうちに、緊張感がなくなり、次第にしゃべる量が増え、笑顔が増え、柔らかなオーラに変化する。

出発する朝、みなHPを回復したような笑顔でこの施設を後にする。

パトロナスが持つ魔法のような力だ。

食事をする移民の方々 奥はパトロナス代表のノルマさん

食事を作るパトロナスのおばちゃんたち
道中で意気投合した中米移民3人組

僕が話を聞くことができた移民たちの境遇についてメモがわりに書いておきたいと思う。

ある日、中米からの移民3人組が到着した。

彼らはメキシコにたどり着くまでの道中で知り合い、一緒に北を目指すことにしたという。

そのなかの一人、ホンジュラス出身の30代の男性は、一度アメリカで働いていたものの、不法滞在が見つかりホンジュラスに強制送還されたらしい。

今回は正式な書類を持っているので問題なく入国できると語っていたが、実際にはどうかわからない。

 

ニカラグア出身の40代の男性は、メキシコ北東部のモンテレイか、西部のミチョアカン州ハリスコ州あたりで仕事を探したいと話していた。

彼によるとメキシコ西部には正式な滞在許可を必要としない農業関係の仕事がたくさんあるらしい。

彼のようにアメリカを目指さずメキシコに根付く移民も多いという。

 

マラリア検査を拒む男性

この3人組が到着した翌日、ベラクルス州の保健局の人たちがパトロナスにやってきた。

新しい移民が宿泊する場合、こうしてマラリアの検査をすることが義務になっているという。

中米からメキシコにマラリアを持ち込ませないようにするためだと保健局の人たちは教えてくれた。

保健局によるマラリア検査

たが、移民のうちの一人が検査を受けたくないと主張し、結局最後まで拒み続けた。

彼の境遇を想像するに、せっかく母国からここまではるばるたどり着いたのに、この検査で病気が見つかって足止めされたり国に戻されたりしてはたまらない、という気持ちだったのだろう。

彼ら中米移民3人組は3日間滞在したあと、北に向けて出発した。

パトロナスを出発する移民たち
夢破れホンジュラスに帰る青年

ある夜、かなり疲れた様子の青年が一人で宿にやってきた。

僕はボランティアとして彼に食事とコーヒーを用意した。

他のメキシコ人ボランティアと一緒に彼から基本的な情報の聞き取りをした。

23歳の彼は地元の治安悪化が原因で、妻と親戚とともにアメリカを目指すことにした。

その後の経過は詳しくわからないが、結局アメリカには入国できず、妻と親戚はホンジュラスに先に帰ってしまったという。

彼だけは残ってアメリカ入国の希望を捨てなかったが、結局願いは叶わず、今はホンジュラスの家族の元に戻る途中だそうだ。

彼は一晩パトロナスに宿泊しただけで翌朝、南に向けて出発した。

 

長年住み込みで働くボランティアたち

パトロナスは非常に居心地の良い空間だ。

清潔な宿とおいしい食事が無料で提供される。

「移民」と一括りにされるのではなく、「マリオ」「エドガル」などそれぞれ個人の名前で呼ばれ、人間性と誇りを取り戻す。

上の短期滞在の移民たち以外にも、すでに1ヶ月ほど宿泊している移民もいた。

メキシコ人のボランティアの人たち

居心地の良さはボランティアたちにも表れている。

僕が滞在していた間、メキシコ人のボランティアが4人働いていた。

1人は大学を卒業してからもう10年も住み込みで働いている青年。

1人は弁護士として働いていたが退職し、2年前からここで働いている女性。

他にも、移民を研究する社会学者のカップルも来ていて、普段はメキシコシティーに住んでいるが7年前から定期的にボランティアとしてここに通っているという。

彼らの人柄はとても親切で接しやすく、パトロナスの空間が醸し出す雰囲気の良さにつながっていると感じた。

パトロナスの代表ノルマさん(右から3人目)、20年以上働いているフリアさん(同2人目)、ボランティアの人たち

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移民たちを襲う腐敗した軍・警察、そして列車事故について

「野獣列車」の移民支援のボランティアに行った話の続き。

ここでは、メキシコから北を目指す移民たちがどんなリスクにさらされているのかを少し書いてみたいと思う。

ヘッドライトを照らしながら通過する野獣列車
列車にひかれ両足を失った移民

パトロナスの宿泊施設には、ベネズエラからやってきた親子(50代くらいの父親と30代前半の息子)がいた。

父親は両足の太ももから下をなくし車椅子に乗っていた。

施設の人に聞くと、彼は1ヶ月ほど前に列車にひかれて足を失ったらしい。

息子の方が、父親をトイレやシャワーに入れたりと介護を担っていた。

 

僕はこの親子と仲良くなりいろいろと話をした。

彼らはベネズエラ経済破綻にも耐えて首都カラカスで長年暮らしていたものの、ついに生活できなくなり2ヶ月前にアメリカを目指してベネズエラを出国した。

「死のジャングル」とも言われるダリエン地峡(コロンビア・パナマ国境)を渡りきり、メキシコまで徒歩でやってきた。

 

メキシコに入ってからのことはあまり多くを語りたがらなかった。

おそらく野獣列車に乗って北を目指していたのだと思う。

途中、犯罪組織に金を脅し取られたりするなど相当つらい行程を歩んできたということだけは少しだけ話してくれた。

 

両足をどのように失ったのかは本人たちには聞いていない。

おそらくある日列車から転落して轢かれたのだと想像される。

病院で切断手術を受け、退院してパトロナスの宿泊施設にやってきたようだ。

パトロナスが提供している移民用の宿泊施設

彼らのように列車から落ちて手足を切断する移民は本当に多く、移民支援における一つの課題となっている。

前回の記事にも書いたように、野獣列車は旅客車ではなく貨物列車なので、移民たちは列車の連結部分や屋根の上など不安定な場所で長時間を過ごす。

強烈な太陽が照りつけ、水や食料も十分には持っていないので、意識がもうろうとすることもあるだろう。

 

僕が出会ったベネズエラから来た親子は、これからアメリカを目指すにはかなり困難な状況に置かれてしまった。

彼らが、今後どのような選択をするのかはわからない。

 

腐敗した軍・警察が移民を襲う

列車事故のほかに移民たちにとってもう一つ大きなリスクとなっているのが、彼らを襲う犯罪組織、そして犯罪組織と結託した軍・警察だ。


僕が滞在していた1週間のうち、実は移民が乗った列車が通ったのは1回だけだった(15人ほどが乗っていた)。

以前に比べて列車に乗る移民は減っているらしい。

列車の音が聞こえると皆でパンと水を準備して線路まで駆けつけるのだが、ほとんどの列車は移民が乗っておらず空振りに終わった。

 

たまたま今回ボランティアに来ていたメキシコ人の社会学者(移民研究が専門)に聞くと、列車に乗る移民の減少は、彼らの安全が脅かされるようになったことが原因らしい。

まず、不法移民の取り締まりを行っているメキシコの軍や警察が彼らを見つけると列車から降りるよう指示する。

そして軍・警察自身が不法滞在を見逃すかわりに金を要求することもあれば、移民たちを車に乗せて犯罪組織に引き渡すこともあるという。

移民たちは犯罪組織から金を渡すよう脅迫され、それを拒めば拷問を受け、最悪命を落とす。

移民たちにとって腐敗した軍・警察・犯罪組織はすべて敵であり、さまざまな危険をかいくぐりながら命をかけて北を目指している。

そのように社会学者は教えてくれた。

もちろんアメリカとの国境を越える際や、アメリカに入ってからも数えきれないくらいの危険があるだろう。

だがその手前、メキシコで危害を加えられたり事故にあったりする移民も多くいること知り暗然とした気持ちになった。

 

次の記事では、パトロナスの宿泊場所としての機能と、そこで出会った印象深い移民たちについて書いてみたいと思う。

 

支援団体「パトロナス」が行っている活動について書いた前回記事はこちら。

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「野獣列車」移民支援のボランティアに行ってきた

30年間 寄付だけで運営される慈善団体「パトロナス」

先週、移民支援のボランティアに行ってきた。

メキシコ・ベラクルス州にある「パトロナス(Las Patronas)」という団体で、メキシコでは有名な移民支援団体だ。

地元のおばちゃんたち15人ほどで運営され、主にアメリカを目指す移民たちへの食料支援などを行っている。

パトロナスの事務所のすぐ裏には線路が通っており、ここを「野獣列車」と呼ばれる貨物列車が通る。

中米・南米からやってきた移民たちがこの野獣列車に乗っていてパトロナスのおばちゃんたちは彼らに食料の袋や水のペットボトルを手渡しする。

メキシコ政府や州からの金銭的支援は一切なく、女性たち自身の持ち出しと寄付だけで運営されているという。

にもかかわらず来年には活動開始から30年目を迎える(1995年設立)というから、パトロナスの継続力は驚異的だ。

彼女たちはキリスト教への信仰心がとても強く「移民を助けたい」という純粋な意思で活動を行っている。

パトロナスの事務所・宿泊施設

パトロナスのおばちゃんたち
寄付された服の中から移民に渡すものを選んでいる
「食料投げ入れ」と「宿泊施設の提供」

パトロナスには重要な機能が2つある。

1つは野獣列車に乗る移民たちへの食料の手渡し(あるいは投げ入れ)、もう1つはパトロナスを歩いて訪れる移民たちへの宿泊場所の提供だ。

僕は1週間滞在してみて後者の方がより重要な活動だと感じたが、そのことは別の記事に詳しく書いてみたい。

ここでは野獣列車への食料の手渡しをどのように行っているかについて触れてみたいと思う。

命の危険をはらむ「野獣列車」とは

メキシコには貨物列車のネットワークがあり、南部のチアパス州から北部のアメリカ国境まで延びている。

この貨物列車には主に中米からアメリカを目指す移民たちが乗っていて、彼らが北を目指す重要な手段になっている。

この列車が「野獣列車」(La Bestia)と呼ばれている。

今回パトロナスを訪れるまで、僕は野獣列車は乗客を乗せる旅客車なのだと完全に勘違いしていた。

実際に見てみると完全に貨物列車だ。

移民たちは、車両と車両のわずかな隙間や、屋根の上に乗っている。

当然、不安定な場所なので長時間つかまっていれば落ちるリスクもあるし、照りつける太陽によって熱中症にもなる。

実際に車両から落ちて列車にひかれ、手足をなくす移民もたくさんいるという。

それでも無料でアメリカ国境まで行けるのは移民たちにとっては魅力的なのだろう。

かつては中米(グアテマラホンジュラスニカラグアエルサルバドル)の移民が大半を占めていたが、近年はベネズエラなど南米からの移民が増え、さらに最近は中国やアフリカ、アフガニスタンからやってくる人もいるという。

野獣列車のネットワーク(パトロナスの施設の壁より)
移民の命綱となる食料と水

パトロナスの施設の横を野獣列車が通るのは1日に2〜3回程度だ。

遠くから列車の音が聞こえると、線路までの50メートルほどの距離を、みんなで食料を持って走っていく。

そして列車に乗っている移民に見えるように袋を大きく振ってアピールする。

列車の運転手が気付いて速度を落としてくれる場合、移民たちに食料袋を手渡しできる。

屋根の上に乗っている移民には袋を投げて渡すのだが、手渡しよりも難易度が高い。

一度、他のボランティアが投げた袋を移民がキャッチできず、僕の頭に缶詰入りの袋が直撃し、めちゃくちゃ痛かった。

ほとんどの移民は十分な食料を持っておらず、ここで受け取る食料が久しぶりの食事となる人も多い。

また照りつける強烈な太陽によって熱中症に近い症状になっている移民もいて、われわれに「水をくれ!」と叫ぶ。

まさにパトロナスの食料と水は移民たちにとって命綱となっている。

食料を渡すためのさまざまな工夫

移民に渡すビニール袋には、パン、フリホーレス(小豆を煮込んだもの)、魚の缶詰が入っている。

毎日、おばちゃんたちやボランティアで、この袋詰めの作業を行う。

列車は通り過ぎる時に速度をゆるめてくれることが多いが、止まってくれるわけではない。

そのため、移民の人たちがつかみやすいように、ビニール袋の持ち手をなるべく長くして縛る。

水のペットボトルも2本1組で縛り、ひもの部分を移民がキャッチできるように工夫している。

渡しやすいように工夫された水のペットボトル

以上がパトロナスが毎日続けている活動だ。

ただ、おばちゃんたちはこれが本業というわけではなく、自分の仕事・育児・家事の合間をぬってこの活動を30年間続けている。

本当に頭が下がるし、敬意という言葉ではとても言い足りない。なんてすごい人たちなんだと思う。

 

パトロナスの活動を説明するだけでだいぶ長くなってしまったので、次の記事で移民たちを危険にさらす列車事故、犯罪組織、腐敗した軍・警察について書いてみたいと思う。

パトロナスが受賞した国内外の数々の賞

 

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