ヒルネクロコップの日記

ペルーに2年ほど住んでいたスペイン語学習者です。 読書や旅行の記録、ラテンアメリカのニュースについて書いていきたいと思います。2023年秋からメキシコに来ました。

メキシコの名門大学院「エル・コレヒオ・デ・メヒコ」を訪問した

去年、念願かなってメキシコの名門大学院「エル・コレヒオ・デ・メヒコ(El Colegio de México)」を訪問することができた。

日本語だと「メキシコ大学院大学」。略称で「コレヒオ」とも呼ばれる。

コレヒオは、1940年に設立された国立大学で、ラテンアメリカ最高峰の人文社会科学系の研究教育機関の一つだ。

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僕は社会学者の見田宗介真木悠介)の本が大好きで、何度も登場するコレヒオに憧れを抱いてきた。

見田宗介は1974~75年にかけて客員教授としてここで教えた経験を持つ。

1970年代はメキシコと日本の交流が盛んで、見田の他にも大江健三郎鶴見俊輔山口昌男など錚々たるメンバーがコレヒオに招かれて教えている(それぞれ客員教授として半年〜1年間ほど)。

その後は、見田宗介の弟子にあたる吉見俊哉さんや上野千鶴子さんも、ここコレヒオで教鞭を取った。

憧れのコレヒオに到着

メキシコシティの南西部、街の喧騒からはちょっと離れたトラルパンという地区にコレヒオはある。

実は1976年に中心部に近いローマ地区から移転したため、見田宗介大江健三郎が教えていた頃とはキャンパス自体は別のものになっている。

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今回、我々を受け入れてくれたのは50年以上にわたりコレヒオで教鞭をとってきた田中道子教授だ。メールをお送りすると、訪問を快諾してくれた。

超エリートの院生たち

田中先生は交通渋滞に巻き込まれ到着が遅れるとのことなので、田中先生のもとで学ぶ3人のメキシコ人院生が出迎えてくれた。

それぞれ、宮沢賢治三島由紀夫、日本の外交史について研究しているといい、日本語も流暢だ。

案内してくれたコレヒオの院生たち

コレヒオには7つの研究センターがあり、田中先生が所属する「アジア・アフリカ研究センター」は日本研究も盛んなのだという。

コレヒオの入学試験の倍率は20倍(!)とのことで、300人受けて15人しか受からないらしい。院生の彼らはスーパーエリートというわけだ。

そもそもコレヒオ・デ・メヒコとは

見田宗介はコレヒオについて、本の中でこのように書いている。

メキシコ最大の大学であるUNAM (メキシコ国立自治大学、通称「メキシコ大学」)が、学生数20万というマンモス大学であることと対照的に、エル・コレヒオ・デ・メヒコは、よい意味でもわるい意味でも非常に「エリート的」といわれる少人数教育に徹底している。私のいたCEAA(アジア・アフリカ研究センター)のばあい、教授の数よりも学生数の方が少ないという学科も多い(日本研究科も然り)。実際の教育・研究活動の軸をなすのは、各分野の教授たちが交互に研究発表を行なって討論する「スタッフ・セミナー」(週1回)であり、そこに学生も出席して自由に質問し批判するということによって、研究と教育機能が統一されている。

定本 真木悠介著作集 Ⅳ「南端まで 旅のノートから」106頁

 

コレヒオの起原は、「1930年代のスペイン人民戦線内閣がフランコに敗れたときに、亡命してきた知識人たちによってつくられた」らしい。

そのため、見田はコレヒオの特徴として、

①教授陣や学生にも外国ルーツの人が多く、コスモポリタン的な性格を持つ大学院であること

②ある種の知的な「ラディカリズム」の雰囲気があること

を指摘している。

 

見田が在籍していた頃からすでに50年が経っているため現在も同様なのかはわからないが、当時はメキシコの中でも国際性や自由な雰囲気が際立った大学であったようだ。

見田がコレヒオを心から気に入っていた様子が文章から伝わってくる。

 

一方、ラテンアメリカ研究者の国本伊代さんによると、コレヒオは

制度的革命党(PRI)政権時代には政府のシンクタンクの役割を果たし、政府との間に緊密な関係があった。

国本伊代『メキシコ2018~19』180頁

という側面もあるらしい。

ラテンアメリカ最大級の図書館

院生たちが日本研究科やその他の教室などに続き、図書館を案内してくれた。

4階建てで、蔵書数は85万冊以上。ラテンアメリカ最大級の図書館だという。

特に文学、歴史学など人文科学に強く、ラテンアメリカ関係の研究者は必ず訪れなければいけない場所と言われているそうだ。

10年ほど前にスペースが足りなくなり、新館を増築したらしい。

図書館入口のカウンター

広大な書庫

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図書館は4階建てで新館と旧館が渡り廊下でつながっている

コレヒオで教えた大江健三郎の作品

鶴見俊輔は1972~73年にコレヒオで教えた。そのときの経験をもとに書いたエッセイが『グアダルーペの聖母』

政治学者・石田雄も1971~72年にコレヒオで教え『メヒコと日本人』を書いた

子どもが遊べるファミリースペースもある

コレヒオの重鎮 田中道子先生

図書館を見学し終わり、食堂でお昼ご飯を食べていると田中道子先生が到着された。

専門は日本史・日本政治で、メキシコにおける日本研究をリードされてきた方だ。

コレヒオでは1973年から日本通史の授業を担当されている。

田中道子先生(右)

その他、社会運動や農民運動、フェミニズム・女性運動史にも非常にお詳しい。

2018年には上野千鶴子さん、井上輝子さんをコレヒオに招いて、メキシコと日本のフェミニズムを比較したシンポジウムを開いている。

wan.or.jp

 

壮絶なトラテロルコ事件

田中先生は歴史の証人のような方だ。

なんと1968年の「トラテロルコ事件」も当事者として経験されたのだという。

トラテロルコ事件とは、メキシコ政府が学生運動を弾圧するため、メキシコシティーのトラテロルコ広場に集まった学生たちに無差別に発砲して虐殺したというものだ。

いまだに全容が解明されておらず、死者は数百人にのぼるという説もある。

メキシコオリンピックが開かれるわずか10日前の出来事だったが、メキシコ政府は事件を隠蔽し、国際社会が虐殺を知るのは時間が経ってからだった。

ja.wikipedia.org

 

田中先生は事件の前年(1967年)にメキシコにやってきて、コレヒオに修士として入学する。それ以前はモスクワの大学に通っていたが、そこでメキシコ人と知り合い結婚したためだ。

メキシコで大学の教師をしていた夫は1968年10月、トラテロルコでの学生集会に参加。

当日、殺害は免れたものの、出動した軍・警察に逮捕される。

田中先生は行方不明となった夫を探すも、どこに連れていかれたのかわからない。

夫の兄と一緒に各地の死体安置所や収容所を探し、翌日になってようやく収監されている夫を発見したという。

結局、釈放されたのは事件から3年3か月もの月日が経ってからだったそうだ。。

 

👇こちらにも詳しい記事がある。

discovernikkei.org

 

鶴見俊輔の話

田中先生は1960年代後半からコレヒオに在籍しているだけあって、多くの著名知識人と交流を持った。その一人が哲学者の鶴見俊輔だ。

鶴見俊輔
https://book.asahi.com/article/14927706より引用

鶴見は1972~73年にコレヒオで教鞭を取ったが、田中先生は鶴見の助手を務めていたのだという。

当時、鶴見は韓国の詩人・金芝河(キム・ジハ、軍事政権下で体制批判の詩を書いて投獄)の解放を求める活動をしていた。

田中先生は、鶴見に「金芝河解放のためにオクタビオ・パス(メキシコの作家・外交官)の署名をもらってきてほしい」と頼まれたのだという。

田中先生はパスの自宅まで行き、無事に署名をもらうことができたそうだ。

登場人物が著名な人ばかりで、すごいエピソードだ…。

 

👇鶴見俊輔のメキシコでの体験は『グアダルーペの聖母』という本にまとめられている。

 

見田宗介の話

見田宗介(「現代思想」2016年1月臨時増刊号より)

社会学者の見田宗介は1974~75年にかけてコレヒオで教えた。

見田が赴任する前年度、田中道子先生は日本に論文の資料を集めに行く必要があり、一時帰国をした。

そのときすでに見田が翌年度の客員教授になることが決まっていたので、コレヒオの学長かセンター長から、「見田先生にコレヒオでの仕事について説明してきてほしい」と頼まれたそうだ。

田中先生は新宿のタカノフルーツパーラーで見田と会い、実際にコレヒオの仕事について説明したほか、その後のメキシコ渡航のお世話もしたという。

 

著作を読むとよくわかるが、見田はメキシコでの体験から多大な影響を受け、作風も大きく変わることになる。

田中先生の見立てでは、見田は家族(妻と2人の子ども)と一緒に来ていたので、メキシコ社会と直に接する機会が多く、メキシコに影響を受けたのはそのためではないかと話していた。

田中先生は見田宗介にかなりいい印象を持っている様子だった。

 

👇真木悠介見田宗介)『南端まで~旅のノートから~』にはコレヒオをはじめ、メキシコ社会の分析、グアテマラボリビア・インドなど各地の旅のエピソードが書かれていてとても楽しい本。

 

大江健三郎の話

小説家の大江健三郎は1976年に半年間コレヒオで教える契約をしていたが、日本に残した息子の体調不良のため、3か月ほどで帰国を余儀なくされた。

このあたりのエピソードは大江の小説『懐かしい年への手紙』の中に登場し、実際に「コレヒオ・デ・メヒコ」という言葉も出てくる。

ラテンアメリカ文学研究者の柳原孝敦さんも言及しているが、大江のメキシコ滞在は決して楽しいものではなく、苦悩に満ちたものだったらしい。

『懐かしい年への手紙』には、主人公が週に1回の講義のほかは家にずっと引きこもり、「中年期を迎えてのアイデンティティーの危機」を感じながら、悶々と過ごす様子が描かれている。

ノーベル文学賞を受賞した頃(1994年前後)の大江健三郎(中央)と田中道子先生(右)
ジャーナル | ディスカバー・ニッケイより引用

大江がコレヒオに来たとき、田中先生は米プリンストン大学の博士課程に在籍していた。そのため、コレヒオでがっつりかぶっていたわけではないという。

ただ、大江が日本に帰国する直前、一緒に旅行に出かけたそうだ。

メキシコ州の山中の巡礼路(先住民文化とキリスト教が融合した場所)に大江の希望で連れて行ったところ、興味深そうにしていたという。

『懐かしい年への手紙』には「マリナルコ」という地名が出てくるので、恐らく旅行に行ったのはそこだろう。

ただし大江は小説の中でマリナルコの「アステカのピラミッド」を間違えて「インカのピラミッド」と書いている。

 

👇去年、エル・コレヒオ・デ・メヒコが開催した大江健三郎の追悼シンポジウム


www.youtube.com

 

その他、文化人類学者・山口昌男(1977-78にコレヒオに赴任)の話など、僕にとっては伝説上の人物とも言える人々の話が聞けて、なんとも充実した幸せな一日だった。

田中道子先生、ありがとうございました。

田中先生を囲んで

図書館の前で

購入したコレヒオグッズ。どれもデザインがかっこいい。

hirunecrocop.hateblo.jp

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