ヒルネクロコップの日記

ペルーに2年ほど住んでいたスペイン語学習者です。 読書や旅行の記録、ラテンアメリカのニュースについて書いていきたいと思います。2023年秋からメキシコに来ました。

ペルー 女性たちの尊厳を踏みにじった強制不妊手術について

3月8日は国連が定めた「国際女性デー」だった。

ここメキシコシティーでは大規模なデモ行進が行われ、18万人が参加したと言われている。

メキシコでは年間3000人もの女性が殺されていて「もう我慢の限界だ」という女性たちの怒りが国中に渦巻いている。

メキシコ国立自治大学の構内を歩いていても、殺された大学生への追悼のメッセージや、抗議のシンボルである紫のカラーの花や布がいたるところに掲げられ、その熱気をを肌で感じることができる。

女子学生が殺されたことへの抗議(メキシコ国立自治大学)
「彼女たちはもういない」と書かれている

女性への暴力について僕が思い出すのは、今から30年ほど前に行われたペルーでの大規模な強制不妊手術だ。

ペルーでは1990年代のフジモリ政権時代に27万人もの女性たちに不妊手術が行われ、その大半が本人の同意を得ずに行われたものだった。

しかも政府から各病院に細かく手術数の「ノルマ」が設けられたため、脅迫や無理強いが横行した。

さらに手術の標的となったのはアンデスやアマゾンの先住民族の女性たちだった。

彼女たちは今も手術の後遺症である体の痛みや、子どもを持てなくなった精神的な苦痛と戦っている。

このように、いくつもの深刻な論点が含まれている事件なのだが、いまだに女性たちには謝罪や補償は一切行われず、解決される見通しは全く立っていない。

法的裁きと補償を求めるアマゾン地域の被害者たち(被害者団体AMPAEFのHPより)www.ampaefperu.org

2年前、僕はこの事件の被害者の方々に話を聞く貴重な機会を得た。

そのときに書いた記事がこちら。

すでにアーカイブスサイトからしか見られないが、人間が犯してきた過ちを繰り返さないための重要な教訓を含んでいると思うので、ぜひ読んでほしい。

web.archive.org

ここでは簡単に強制不妊手術が行われた経緯と問題点を書いてみたいと思う。

アルベルト・フジモリ大統領が打ち出した不妊手術政策

日系2世の大統領であるフジモリ氏は1期目の政権時(1990~95年)にテロ組織を弱体化させ治安の改善に成功した。

続く2期目(1995~2000年)の目玉政策として打ち出したのが「貧困対策」、そして貧困対策の中心的な手法となったのが「家族計画」=「避妊法の普及」だった。

当時ペルーでは、都市部から離れたアンデス山脈やアマゾン地方など出生率が高く、所得が低い地域の生活改善が課題でした。

この頃、農村部の女性1人が産む子どもの数は平均6人ほど。

フジモリ政権は、出生率を下げて人口の増加を抑えることが貧困問題の解決につながると考え、政府の政策として「自主的な不妊手術を含む、安全な避妊方法を無料で提供する」と発表したのです。

(上記 NHK「国際報道」HPより引用)

フジモリ政権のこの考え方(”人口の増加を抑えることが貧困問題の解決につながる”)は現在の開発経済学では否定されている誤った認識だ。

現在では逆に、貧困問題を解決することによって人口の増加が抑えられることがコンセンサスとなっている。

ペルーで起こった悲劇は、最初の出発地点から間違っていたのだ。

ノルマが課され手術数を優先した医師たち

不妊手術」(卵管を縛って妊娠できなくする手術)は安価で不可逆的な避妊方法であるため、人口政策にとっては都合が良い。

フジモリ政権は目標を達成するために全国の各地域に数値目標、すなわちノルマを設けた。

そのノルマは各医療機関に割り振られ、政府からの圧力として働くようになる。

当時、アマゾン地帯の主要都市イキトスの病院で働いていた医師は次のように証言している。

「当時、私の勤めていた病院には1日に20~40人不妊手術をするよう政府から指令が出ていました。そのため産科医たちは、なんとかして患者を集めなければなりませんでした。数を稼ぐことが優先され、患者への診察や説明はおざなりになっていきました。私は『こんなことは倫理的に許されない』と言って手術を拒否しました。しかし医師や看護師には契約スタッフも多く、『目標を達成できなければ解雇する』と脅されて断れなかった人も多くいました。かなり異様な状態でした」

(同上)

フジモリ政権は当時、国会、司法、メディアを支配下におき、独裁的な体制を築いていた。

ノルマの達成状況は保健大臣からフジモリ大統領本人へ逐一報告されていたので、現場の医療機関には「政府には逆らえない」という恐怖心もあったと思われる。

強制不妊手術の被害者たち(被害者団体AMPAEFのHPより)www.ampaefperu.org

さらに驚くのが、医療機関が十分にない地域には不妊手術専門のキャラバンが設けられ、村々をまわって手術を行っていたという事実だ。

ラテンアメリカ研究が専門の古屋哲さんは以下のように書いている。

ペルーの山間部や熱帯低地には、医療施設が遠方にしかない地域や、施設があっても医療設備や医薬品、医師が不足している地域が広がっており、そこでは既存の医療体制では手術ができない。そこで、特別に編成された数人のスタッフからなるチームが派遣されて、このチームが病院や保健所を拠点として1、2日の間に数件から数十件もの手術を行い、その後、次の拠点に移動していった。これは「総合医療キャンペーン」「不妊手術フェスティバル」などと名づけられ、期間前には地元の病院や保健所の職員が、特別なノルマを課せられて、付近の集落をまわり、戸口を叩いて住民を勧誘した。

(古屋哲「不妊手術推進政策」2004年、『フジモリ元大統領に裁きを』 45頁)

強制となった手術 矛先は先住民族の女性たちへ

ノルマをともなった大規模なキャンペーンの結果、家から無理やり女性を連れ出したり、病院で脅迫や監禁をしたり、無断で麻酔を打ったりするなど、手術の強要が横行するようになる。

不妊手術政策が行われた1996~2000年で手術を受けた女性は27万人にのぼるが(手術数のピークは1997年)、大半のケースで医師からの説明や本人の同意なしに手術が行われた。

ペルーの研究者の聞き取り調査では同意があったのは約3割ほどと推定されている。

 

そして僕が最も怒りを感じるのが、手術を強制された多くの女性がアンデスやアマゾンの先住民族だったということだ。

彼女たちは手術の際に「子どもを多く欲しがるなんてまるでウサギやクイ(アンデスの食用ネズミ)みたいだ」などと医師や看護師から差別的な言動を受けた経験を持つ人が多い。

また手術を実施した数は「生産高(Producción)」と呼ばれていた。

信じがたいことだが、政府の役人や医療関係者の中には”先住民族は我々より下等な存在だ”というおぞましい考え方が広がっていたのだろう。

 

強権的な政府からノルマというプレッシャーが与えられ、そこに人種差別が介在することで、人間を人間とみなさず「数」としか考えない風潮が蔓延し、人権を無視した暴力的な措置が歯止めなく進行する。

ペルーの強制不妊手術のケースは、人間の醜悪で恐ろしい部分を僕たちに伝えてくれる。

手術を命令・実行した人々への法的裁きを求める被害者たち
(被害者団体AMPAEFのHPより)www.ampaefperu.org

謝罪・補償は現在まで行われず

強制不妊手術はその後、以下のような経過をたどることになる。

2000年 フジモリ氏が大統領職を放棄、日本へ亡命

2002年 ペルー保健省が不妊手術政策についての報告書を発表(トレド政権時)

2007年 ペルー警察が民間人殺害事件(強制不妊手術とは別の事件)などの容疑でフジモリ氏を逮捕

2009年 フジモリ氏禁錮25年の有罪判決(翌年に判決確定)

2015年 ペルー政府が強制不妊手術があった事実を公式に認める

2016年 不妊手術被害者の全国団体ANPAEF発足(各地の被害者団体を統合)

2021年 ペルー議会が被害者に補償を認める法律を制定

2022年 ペルーの裁判所が強制不妊手術事件についてフジモリ元大統領と当時の保健大臣3人の起訴を認める

 

事件から約20年後(2015年)にようやくペルー政府は強制的な手術があったことを公式に認めた。

そして2021年に先住民族の国会議員タニア・パリオナさんらの尽力により初めて被害者に補償を認める法律が制定される。

だが補償を行う方法については議会で合意に至っておらず、いまだに被害者の女性たちは謝罪も補償も一切受け取っていない。

釈放されたフジモリ元大統領 裁判は白紙へ

昨年12月、憲法裁判所の命令によってフジモリ元大統領が釈放された。

(2018年の最高裁判所による「恩赦取り消し」を無効とする判断)

刑期を10年以上残した釈放にペルー国内は紛糾している。

現大統領が延命のために議会のフジモリ派と結託したという見方もされている。

いずれにしても今回の決定によって、おととし起訴の手続きに入った強制不妊手術に関してのフジモリ氏の裁判は白紙に戻ってしまった。

釈放されショッピングモールを歩くフジモリ元大統領 2024年2月
(ペルー紙「Perú21」より引用)

peru21.pe

僕個人としては、被害者の感情を考えるとやりきれない思いがする。

人生を台無しにされ、謝罪も補償もないまま30年を過ごし、長年の戦いの末にやっと裁判にまでこぎつけたというのに、容疑者が突然自由の身となる。

フジモリ氏がショッピングモールを笑顔で歩く様子を、彼女たちはどんな思いで見ているのだろうか。

不条理という言葉では言い表せない。

 

参考文献

NHK「国際報道」ウェブサイト  2022年

web.archive.org

 

古屋哲「不妊手術推進政策」2004年、『フジモリ元大統領に裁きを』所収

 

ペルー保健省「リプロダクティブヘルスおよび家族計画全国プログラム1996-2000」1996年(フジモリ政権による当初の計画)

https://bvs.minsa.gob.pe/local/minsa/315_PROG66.pdf

 

NGOラテンアメリカ・カリブ女性権利委員会」(CLADEM)による調査報告書「Nada Personal」1999年

https://1996pnsrpf2000.files.wordpress.com/2011/07/cladem_nada-personal.pdf

 

ペルー保健省による最終報告書 2002年

https://1996pnsrpf2000.files.wordpress.com/2011/07/informe-final-comision-especial-aqv.pdf

 

被害者の全国団体「AMPAEF」ウェブサイト

www.ampaefperu.org

世界中にある「支倉常長」像 ~大航海時代を生きたグローバル日本人~

去年メキシコのアカプルコ市を襲った時速270キロのハリケーンを無傷で耐え抜いたものがある。

支倉常長(はせくら・つねなが)の銅像だ。

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この銅像は日墨友好の象徴として1973年に仙台市からアカプルコに送られたものだ。

銅像がある「日本広場」にも被害はないようで、周辺の破壊された建物と比べると奇跡的だという印象を受ける。

アカプルコ海岸沿いの「日本広場」。奥には支倉常長銅像
隣にある倒壊したバーの壁には「がんばろうアカプルコ」の横断幕が掲げられている。

意外と知られていない支倉常長の偉大な功績

支倉については日本史の教科書で昔習った気がするのだが、どんな人物なのかあまり記憶が定かではなかった。

調べてみると、江戸時代が始まったばかりの1614年に伊達政宗の命を受け「慶長遣欧使節」のリーダーとしてメキシコ、キューバ、スペイン、イタリアに渡った人物らしい。

太平洋を通ってアメリカ大陸、ヨーロッパに渡ったパイオニアだ。

支倉の功績について歴史学者の清水透さんは以下のように記している。

支倉は…(中略)…日本に銃器、印刷機、楽器、海図、医学といったヨーロッパの近代技術を持ち帰ります。使節団の一部はメキシコやスペインにそのまま残留し、日本人の血を残していく。こうして日本も、アメリカ大陸の「発見」そして太平洋の征服を介して、西回りだけでなく東回りでも、ヨーロッパとのつながりを拡大してゆくこととなります。(清水透『ラテンアメリカ500年』54頁)

支倉常長(サン・ファン館のHPより )

https://www.santjuan.or.jp/history.html

支倉がたどった大航海ルート

サン・ファン館のHPより https://www.santjuan.or.jp/history.html

支倉がたどった足跡は宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)のHPにわかりやすく紹介されている。

サン・ファン館|慶長遣欧使節と支倉常長

仙台藩主・伊達政宗は、当時のメキシコ(スペイン領ヌエバエスパーニャ)との通商を始めたいと考え、宗主国のスペインを主な目的地としてこの使節を派遣した。

伊達政宗の家臣であった支倉が使節を率いることになり、大型帆船でまずはメキシコへ到着。

アカプルコ(太平洋側)の港から入り、メキシコシティの教会を訪れ、ベラクルス(大西洋側)の港からキューバに向けて出発した。

メキシコ・アカプルコの港

キューバ訪問後は、大西洋を渡りスペインに到着している。

だがスペイン王フェリペ3世に通商交渉に挑むも、どうやら成功しなかったらしい。

その後イタリアでローマ法王にも謁見。

帰路では再びメキシコを通り、フィリピンにも寄港して日本に到着している。

支倉の銅像は世界各地に・・・

アカプルコに滞在していたときには完全に忘れていたのだが、僕は2019年にキューバでも支倉常長像を見たことがある。

こちらがその銅像。首都ハバナの観光地、海岸沿いのけっこういい場所に建てられている。

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右手に掲げた扇子は最終目的地のローマを指しているとのこと。

支倉常長キューバに渡った初めての日本人になるのだそうだ。

Wikipediaの「支倉常長」の項目によると、支倉の銅像は日本、メキシコ、キューバのほか、スペイン、イタリア、フィリピンにもあるらしい。

帰港したほぼすべての国に銅像があるとは面白い!

将来、世界の支倉像をコンプリートしたいという謎の欲がわいてきた。

支倉常長 - Wikipedia

大航海時代の真っただ中を生きた日本人

支倉のたどったルートが面白いのは、大航海時代をそのまま体現したかのような航路だという点だ。

支倉が出発するちょうど50年前、大航海時代の重要な出来事の一つ「太平洋航路の発見」があった。

歴史上初めて、メキシコ→フィリピン、フィリピン→メキシコの航海ルートが確立されたのだ。

歴史学者の清水透さんは、その重要性について以下のように述べている。

1564年11月アウグスティヌス会の修道士ウルダネータを水先案内人として、レガスピ率いる遠征隊がメキシコ太平洋岸のナビダ港を出港し、約3カ月の航海のすえ1565年フィリピンに到達します。そして同じ年ウルダネータがおよそ4カ月かけてメキシコへの帰還に成功するのです。

以後1815年までおよそ250年間にわたり、300トンほどの大型帆船ガレオンによるこの太平洋航路をつうじて、定期的に人と物の往来が続きます。

この太平洋航路の開設によって、東回りでも西回りでも地球を一周することが可能となり、はじめて地球の一体化の基礎が築かれます。1521年のマゼランによる世界周航はあまりにも有名ですが、極論すればあれは単発的な事件にすぎません。彼のたどった航路を、その後、人や物が恒常的に移動した例はないのです。地球の一体化、世界史の成立という面では、レガスピ、ウルダネータによる太平洋航路の発見こそが決定的な意味を持っているのです。(清水透『ラテンアメリカ500年』50~52頁)

支倉たちがメキシコやヨーロッパを訪問できたのは、大航海時代のダイナミズムの産物だったのだ。

 

これまで全く知らなかったが、支倉常長については司馬遼太郎の小説の題材になっていたり、宝塚の演劇の主人公になっていたりするらしい。

また、アルファベットの資料で彼のつづりが「ファセクラ」となっていることから、当時日本で「ハ行」が「ファ行」として発音されていた根拠の一つともなっているそうだ。

ますます興味深いこの人物、今後も調べてみたい。

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初めてマチェテ(山刀)を使った ~アカプルコ植物園でのボランティア~

去年12月、アカプルコで災害復旧のボランティアをしたいと思い、赤十字キリスト教系の団体など5カ所にメールを送った。

だがメキシコにはボランティアという文化がないらしく、なかなか返事が来ない。

唯一返事をくれたのがアカプルコの植物園だったため、ここで一週間働くことにした。

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ハリケーンの被害を受けたアカプルコの現状はこちら。

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植物園の中はとにかく大変な状況だった。

大半の木が根こそぎ倒されてしまい、植物園の中の道を塞いでいる。

鉢植えなどの植物はぐちゃぐちゃになり、すでに死んでしまっているものが多い。

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僕が入ったチームは、倒れた木を外に運び出す作業を担った。

そのままでは重くて運べないので、6〜7人のチームでチェーンソーやマチェテ(山刀)を使って木を細かく切っていく。

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このマチェテ、中南米の田舎ではとてもよく使われる刀で、山道を進むときや農作業など、とても頻繁に見る。

だがこれまで実際に使ったことはなかったので、握ってみて少し興奮した。

自分もようやくマチェテユーザーになれたのだと。

だが慣れないうちは扱うのがとても難しく、メキシコ人のようにスパスパ切れない。

きっと力の入れ具合などコツがあるのだろう。

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そういえば以前に見た「カナルタ」という映画に、誤ってマチェテで自分を切ってしまい大怪我をしたエクアドルの先住民のおじさんが登場していた。

マチェテを使うときは自分の足を切らないようにするため、刀を自分より外に向けて振らなければいけない。

自分自身を切ってしまう可能性があると思うと緊張する。

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チームはとても雰囲気が良くとても楽しい一週間を過ごした。

自分が貢献できたのはほんの少しだが、最終日に離れるときに寂しさを感じるほどに受け入れてもらえていると感じた。

アカプルコの太陽のように、人々の性格もとても明るい。

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アカプルコの植物園でボランティアをしたい方はこちらのフェイスブックページからメッセージを送ってみてください。

https://www.facebook.com/p/Jard%C3%ADn-Bot%C3%A1nico-de-Acapulco-AC-100069493665396/?paipv=0&eav=AfbcwgzNUkoQO1v38wOA7vwtaR310DXi8Gicqe0f0DdomLdJy0jUhue4n0G-0_YxOEQ&_rdr

 

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ハリケーンで破壊された街に行った ~メキシコ・アカプルコの現状~

昨年末、ハリケーンで壊滅的な被害を受けたアカプルコという街に災害復旧ボランティアに行ってきた。

アカプルコはメキシコの太平洋側に面したリゾート観光都市で、何度もハリウッド映画の舞台にもなっている。

江戸時代に伊達政宗が日本人使節をメキシコに送った際にはこのアカプルコの港に到着し、今でもアカプルコ仙台市姉妹都市となっている。

実は日本とも繋がりの深い街なのだ。

 

2023年10月26日、アカプルコを時速270キロのハリケーンが襲い、高級ホテルや高級マンションが破壊されていく様子にメキシコ中が震撼した。

 

僕はUNAM (メキシコ国立自治大学)の救援物資収集所で2週間ほどボランティアをしていたのだが、現地の様子が見たくなり実際にアカプルコに行くことにした。

アカプルコに送る物資の収集所(メキシコ国立自治大学)

アカプルコに着いて知り合いの車で街を一回りしたが、街が想像以上に破壊されているのを目の当たりにして衝撃を受けた。

破壊されたレストランやバー

壁がなくなったショッピングモール

ガラスが吹き飛ばされた高級マンション

災害から1ヶ月半が経ち、「アカプルコは復旧に向けて歩み始めている。観光も再開している」という報道が増えてきたのでてっきりそう思っていたのだが、全然そのようには見えなかった。

 

街の人たちの話では、街が元通りに復旧するには3〜5年はかかるだろうとのことだった。

2階部分はジムだったが、ガラスがなくなりトレーニング機器がむき出しに

ロゴが飛ばされてしまったマック

ガラスがなくなったホンダの販売店

同じくガラスが飛ばされ板に覆われた日産の販売店。「I」の文字がなくなっている。

アカプルコはとにかく蒸し暑い。
半袖・短パンで歩いていても汗が流れ落ちてくる。

だが、災害が起こってから1ヶ月間はほとんどの家に電気が来ず、クーラーもインターネットもない生活を余儀なくされたという。

街の中心部の広場。行政によって仮設の相談所が設けられ、多くの人が生活の再建に向けて給付金などの相談に訪れていた。

道には大量のゴミ

災害の当日はどんな様子だったのか。

ある女性の話では、夜中に急にハリケーンの勢いが強くなり、玄関から入ってくる雨を防ぐのに必死だったという。

だが猛烈な風の勢いに命の危険を感じ、トイレに数時間こもって何とかやりすごしたそうだ。

朝になって外に出てみると、木々や電柱、ゴミで道が埋め尽くされていたという。

 

日本では時速195キロ以上の台風が「猛烈な台風」と呼ばれているそうだが、今回アカプルコを襲った時速270キロというのはどれほど強烈だったのだろうか…。

アカプルコはこれまで何度も「ハリケーンが来るかもしれない」と警告されていたが実際に来たためしがなかったそうで、災害への備えができていなかったという。

根こそぎ倒された木々

川は倒れた木々で埋め尽くされていた

一方で、今回アカプルコの人たちに話を聞いて驚いたのが、皆めちゃくちゃ明るいということだ。

誰も将来を悲観せず、希望を持って目の前の再建に取り組んでいる。

そしてレストランやホテルの一部は、建物が壊れたままで営業を再開していて、アカプルコの人々のたくましさを感じた。

建物は壊れたままだが営業を再開したホテル

ビーチにも少しずつ観光客が戻り始めている

アカプルコの海に沈む夕日は美しい

次の記事では、実際に行ったボランティアと、ハリケーンを無傷で耐え抜いた「支倉常長像」について書いてみたい。

 

hirunecrocop.hateblo.jp

 

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ピノチェト時代の虐殺・拷問の記憶 ~チリの「記憶と人権の博物館」に行った~

4~5月に行ったチリ、アルゼンチン、ペルー旅行では印象に残る場所がいくつもあった。

まず書き残しておきたいのが首都サンティアゴで訪れた「記憶と人権の博物館」だ。

来月(2023年9月11日)にはチリのピノチェト将軍によるクーデターからちょうど50年となるが、この博物館では軍事独裁政権時代(1973年~1990年)に行われた虐殺や人権侵害について知ることができる。

いわゆる「ブラックツーリズム」として大変勉強になる場所だ。

記憶と人権の博物館 入口
被害者は約4万人

1973年9月11日、チリでは陸軍のピノチェト将軍がクーデターを起こし、わずか1日で左派のアジェンデ政権を崩壊させた。

ピノチェト将軍

アジェンデ大統領はサンティアゴ中心部のモネダ宮殿で自殺した。

その後、政治的理由による逮捕、監禁、拷問、殺害など、市民への多大な人権侵害が行われることになる。

軍事政権の約17年間で、強制失踪・処刑による犠牲者は3216人、監禁や拷問の被害に遭った人は3万8254人と公式に報告されている。

正確で冷静な展示

この「記憶と人権の博物館」は2010年に開館した。

1973年9月11日に何が起きたのか、軍部によってどのように拷問や処刑が行われたのか、被害者家族たちが正義と補償を求めてどのように戦ってきたのか、などについて体系的に知ることができる。

展示はすべて、1990年に軍事政権が終わった直後につくられた「真実和解委員会」による報告書や、2010年・2011年にあらためて調査が行われた際の「第2次報告書」など、公式の発表に基づいている

その語り口はとても冷静だが、一つ一つの事実にインパクトがあり、心に重く響いてくる。

実際に拷問を受けた被害者の証言ビデオもあって、人間が人間に対して行った行為の醜さを存分に実感できる展示だ。

犠牲者たちの写真と慰霊の空間

すべての展示の中で最も目をひくのが、「不在と記憶」と題されたスペースだ。

壁一面に亡くなった方の顔写真が掲げられていて迫力がある。

手前にはタッチパネルがあり、死亡・行方不明者の氏名が検索できる。

例えばある人の氏名を入力すると、その方の顔写真や生年月日、死亡日、死亡場所、どのように亡くなったのか、など詳細が表示される。

そして「献灯」マークを押すと、画面上で鎮魂のろうそくを2日間灯すことができる。

家族にとっては亡き人に祈りを捧げる場所であり、一般市民にとっては不条理な愚行を二度と繰り返さないと誓う、記憶と慰霊の空間だ。

処刑されて亡くなった方すべてを掲示するのは無理なので、定期的に顔写真の入れ替えを行っているそうだ。

入口に立つのぼりには「1973-2023 クーデターから50年」「二度と繰り返さない」と書かれている

私が行ったときには午後5時からガイドによる館内ツアーが行われていた。

地球の歩き方」には載っていないが、チリについて深く知りたい人、歴史に興味がある人など、ぜひ訪れてほしい場所だ。

goo.gl

www.youtube.com

 

人間よりも健康かもしれない‟マテ茶鶏”!? ~マテ茶の健康効果について~

5月にアルゼンチンから帰ってきたときは、「日本でもマテ茶を飲むのを趣味にしよう!」と意気込んでいたものの、実際にはなかなか時間がなくて飲めていない。

ブエノスアイレスの日曜市で買ったマテ茶カップも寂しがっているだろう。

自分を奮い立たせるため、マテ茶の健康効果について少しだけ調べてみたのでメモしておきたいと思う。

ブエノスアイレスで買ったマテ茶カップ
マテ茶の成分と健康効果

前の記事にも書いたようにマテ茶は「飲むサラダ」と言われていて、アルゼンチン人は肉食が多いので野菜不足を補う意味もあるようだ。

まず豊富に含まれている成分だが、ポリフェノールカテキン類、フラボノイド類、それにカルシウム・鉄分・マンガン亜鉛などのミネラルが挙げられるらしい。

 

そして主な効能だけで以下のようなものがあるとされている。

「気分転換、ストレス解消、鎮静効果、発ガン予防効果、胃潰瘍予防効果、動脈硬化・心疾患予防効果、血栓症予防効果、高血圧症予防効果、虫歯予防効果、アレルギー予防効果などである。」

(アルベルト松本著『アルゼンチンを知るための54章』より)

すばらしい、飲むしかない!と思わせる内容だ。

実際に、以前日本で開かれた食品展示会でこうした結果が示されると、アルゼンチン企業関係者も驚いていたほどだそうだ。

調べたのは日本の研究者

なぜ日本の食品展示会なのかというと、マテ茶の科学的な研究は、実はアルゼンチンよりも日本の研究者によって積極的に進められたらしい。

その第一人者が城西大学薬学部の和田政裕教授で、マテ茶の効能に関する著書も出されている。

item.rakuten.co.jp

和田教授がマテ茶の効能を調べようと思ったきっかけもユニークだ。

南米諸国の人々は、日本人に比べると何倍もの肉類を消費していますが、野菜類とりわけ緑黄色野菜の摂取量は驚くほど少ないのです。

誰の目にも、アンバランスな食生活としか映りませんが、糖尿病や循環器系疾患をはじめとする生活習慣病の発症率が特に高いというわけではありません。

それはなぜなのか。

この事実が私がマテ茶に興味をもち、研究を始める発端となりました。

(和田政裕著『機能性と栄養に優れた南米のマテ茶』まえがきより)

マテ茶を食べて育った健康そうな鶏肉

先日、近所のスーパーで「マテ茶鶏」という鶏肉を発見した。

販売している日本ハムの公式の説明によると「マテ茶鶏は、ブラジルの広大な土地で栽培されたマテ茶を飼料に配合して育てられた鶏です」ということらしい。

マテ茶鶏® - 鶏肉 | 日本ハム

だが説明はこの一言のみで、マテ茶を食べさせることでニワトリにどのような効果があるのか、あるいは鶏肉の質にどのような影響があるのかについては全く分からない。

きっとマテ茶のおかげで人間よりも健康に育ったニワトリなんだと想像する。

けれども逆に、すくすくと育ったニワトリを殺して食べてしまうのが申し訳ないような気もする。

hirunecrocop.hateblo.jp

 

アマゾンの森の中までマテ茶を持ってくるアルゼンチン人たち

先日の南米旅行で印象に残った景色の一つが、アルゼンチン人たちがマテ茶を楽しむ姿だ。

とにかく、どこへ行っても飲んでいる。

公園でくつろぐ人、買い物する人、売店の店員、オフィスで働く人・・・。

何度か「え、こんなところまでマテ茶・・・?」と驚くこともあったので、以下に書いてみたいと思う。

そもそもマテ茶とは

マテ茶は南米発祥のお茶で、丸みをおびたカップに茶葉を入れてお湯をそそぎ、金属製のストローで飲む飲み物だ。

アルゼンチン大使館の説明によると、「マテ茶は日本人にとっての緑茶のように、アルゼンチンの人たちにとってなくてはならない生活に密着したお茶」だそうだ。

https://ejapo.cancilleria.gob.ar/es/node/32146

ミネラルや鉄分が豊富なことから「飲むサラダ」とも呼ばれている。

もともとは先住民のグアラニー族の人たちが飲んでいたもので、アルゼンチン以外にもパラグアイウルグアイ、ブラジル南部で飲まれているらしい。

(アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』より)

 

今回の旅行で初めてマテ茶を飲んでみたが、苦くておいしい。はまりそうな味だ。

 

イグアスの滝 マテ茶を飲みながら観光する人々

マテ茶を飲むアルゼンチン人の姿が印象に残った場所が、イグアスの滝だ。

イグアスの滝は「世界三大瀑布」の一つで、アルゼンチンとブラジルの国境にある。

多くの観光客が訪れるアルゼンチンの名所の一つだ。

大迫力の滝を見るためには、国立公園に入ってから何キロも遊歩道を歩かなければいけないのだが、多くのアルゼンチン人(と思われる)の家族連れがマテ茶セットを持ち歩いている。

マテ茶セットとは、マテ茶の容器、茶葉、そしてお湯をいれたでかい魔法瓶だ。

ただでさえ疲れる道中なのに、さも当然かのように重たいセットを運んでいる姿に軽い衝撃を受けた。

マテ茶セット。これよりも大きな魔法瓶を持ち歩いている。https://www.cheka.com.ar/notas/ver/companero-tradicionalより引用。

アルゼンチン人たちにとって、観光旅行にもマテ茶は必須のアイテムらしいのだ。

日本人の緑茶愛に比べると、はるかにアルゼンチンのマテ茶愛の方が勝っている。

(ちなみに、イグアスの滝のあるミシオネス州は特に茶葉の生産が盛んらしく、それも影響しているのかもしれない。)

イグアスの滝にあった巨大なマテ茶のレプリカ
アマゾンの森の中まで・・・!?

さらに驚いたのが、ペルーのイキトスに行ったときのことだ。

2泊3日でアマゾンのジャングル探索ツアーに参加したのだが、宿泊先のロッジでアルゼンチン人のご家族と一緒になった。

なんとこのご家族もマテ茶セットを持ってきていた。

アルゼンチンからわざわざ、ペルーのジャングルの中まで…。

しかも、旅行中になくならないよう3キロほどはあろうかと思われる巨大な茶葉の袋を携帯している。当然、でかい魔法瓶も。

アマゾンのロッジは扇風機がないと寝れないほどの蒸し暑さだ。

それにもかかわらず、ご家族は悠然と熱いマテ茶を飲んでいる。

その一貫した情熱に、えも言われぬ感銘を受けた。

 

マテ茶を愛する発電所パラグアイ人たち

もう一つ、マテ茶が印象に残っている光景がある。

パラグアイ・ブラジル国境にある「イタイプー水力発電所」に行ったときのこと。

発電所の管理センターはパラグアイ人とブラジル人が半々の人数で業務を行っているのだが、パラグアイ人スタッフだけがマテ茶を飲みながら仕事をしていたのだ。


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この動画の手前にいて優雅にマテ茶を飲んでいるのがパラグアイ人。

マテ茶を持たず、奥で忙しく仕事をしているのがブラジル人だ。

ただそう見えただけかもしれないが、パラグアイ人の方がゆったりと、お喋りを楽しみながら働いているような印象を受けた。

 

どうやらマテ茶を愛しているのはアルゼンチン人だけではないらしい。

仕事中にマテ茶をたしなんでいる姿を見ると、人生を謳歌しているような気もしてうらやましくなったりもした。