3月8日は国連が定めた「国際女性デー」だった。
ここメキシコシティーでは大規模なデモ行進が行われ、18万人が参加したと言われている。
メキシコでは年間3000人もの女性が殺されていて「もう我慢の限界だ」という女性たちの怒りが国中に渦巻いている。
メキシコ国立自治大学の構内を歩いていても、殺された大学生への追悼のメッセージや、抗議のシンボルである紫のカラーの花や布がいたるところに掲げられ、その熱気をを肌で感じることができる。
女性への暴力について僕が思い出すのは、今から30年ほど前に行われたペルーでの大規模な強制不妊手術だ。
ペルーでは1990年代のフジモリ政権時代に27万人もの女性たちに不妊手術が行われ、その大半が本人の同意を得ずに行われたものだった。
しかも政府から各病院に細かく手術数の「ノルマ」が設けられたため、脅迫や無理強いが横行した。
さらに手術の標的となったのはアンデスやアマゾンの先住民族の女性たちだった。
彼女たちは今も手術の後遺症である体の痛みや、子どもを持てなくなった精神的な苦痛と戦っている。
このように、いくつもの深刻な論点が含まれている事件なのだが、いまだに女性たちには謝罪や補償は一切行われず、解決される見通しは全く立っていない。
2年前、僕はこの事件の被害者の方々に話を聞く貴重な機会を得た。
そのときに書いた記事がこちら。
すでにアーカイブスサイトからしか見られないが、人間が犯してきた過ちを繰り返さないための重要な教訓を含んでいると思うので、ぜひ読んでほしい。
ここでは簡単に強制不妊手術が行われた経緯と問題点を書いてみたいと思う。
アルベルト・フジモリ大統領が打ち出した不妊手術政策
日系2世の大統領であるフジモリ氏は1期目の政権時(1990~95年)にテロ組織を弱体化させ治安の改善に成功した。
続く2期目(1995~2000年)の目玉政策として打ち出したのが「貧困対策」、そして貧困対策の中心的な手法となったのが「家族計画」=「避妊法の普及」だった。
当時ペルーでは、都市部から離れたアンデス山脈やアマゾン地方など出生率が高く、所得が低い地域の生活改善が課題でした。
この頃、農村部の女性1人が産む子どもの数は平均6人ほど。
フジモリ政権は、出生率を下げて人口の増加を抑えることが貧困問題の解決につながると考え、政府の政策として「自主的な不妊手術を含む、安全な避妊方法を無料で提供する」と発表したのです。
(上記 NHK「国際報道」HPより引用)
フジモリ政権のこの考え方(”人口の増加を抑えることが貧困問題の解決につながる”)は現在の開発経済学では否定されている誤った認識だ。
現在では逆に、貧困問題を解決することによって人口の増加が抑えられることがコンセンサスとなっている。
ペルーで起こった悲劇は、最初の出発地点から間違っていたのだ。
ノルマが課され手術数を優先した医師たち
「不妊手術」(卵管を縛って妊娠できなくする手術)は安価で不可逆的な避妊方法であるため、人口政策にとっては都合が良い。
フジモリ政権は目標を達成するために全国の各地域に数値目標、すなわちノルマを設けた。
そのノルマは各医療機関に割り振られ、政府からの圧力として働くようになる。
当時、アマゾン地帯の主要都市イキトスの病院で働いていた医師は次のように証言している。
「当時、私の勤めていた病院には1日に20~40人不妊手術をするよう政府から指令が出ていました。そのため産科医たちは、なんとかして患者を集めなければなりませんでした。数を稼ぐことが優先され、患者への診察や説明はおざなりになっていきました。私は『こんなことは倫理的に許されない』と言って手術を拒否しました。しかし医師や看護師には契約スタッフも多く、『目標を達成できなければ解雇する』と脅されて断れなかった人も多くいました。かなり異様な状態でした」
(同上)
フジモリ政権は当時、国会、司法、メディアを支配下におき、独裁的な体制を築いていた。
ノルマの達成状況は保健大臣からフジモリ大統領本人へ逐一報告されていたので、現場の医療機関には「政府には逆らえない」という恐怖心もあったと思われる。
さらに驚くのが、医療機関が十分にない地域には不妊手術専門のキャラバンが設けられ、村々をまわって手術を行っていたという事実だ。
ラテンアメリカ研究が専門の古屋哲さんは以下のように書いている。
ペルーの山間部や熱帯低地には、医療施設が遠方にしかない地域や、施設があっても医療設備や医薬品、医師が不足している地域が広がっており、そこでは既存の医療体制では手術ができない。そこで、特別に編成された数人のスタッフからなるチームが派遣されて、このチームが病院や保健所を拠点として1、2日の間に数件から数十件もの手術を行い、その後、次の拠点に移動していった。これは「総合医療キャンペーン」「不妊手術フェスティバル」などと名づけられ、期間前には地元の病院や保健所の職員が、特別なノルマを課せられて、付近の集落をまわり、戸口を叩いて住民を勧誘した。
(古屋哲「不妊手術推進政策」2004年、『フジモリ元大統領に裁きを』 45頁)
強制となった手術 矛先は先住民族の女性たちへ
ノルマをともなった大規模なキャンペーンの結果、家から無理やり女性を連れ出したり、病院で脅迫や監禁をしたり、無断で麻酔を打ったりするなど、手術の強要が横行するようになる。
不妊手術政策が行われた1996~2000年で手術を受けた女性は27万人にのぼるが(手術数のピークは1997年)、大半のケースで医師からの説明や本人の同意なしに手術が行われた。
ペルーの研究者の聞き取り調査では同意があったのは約3割ほどと推定されている。
そして僕が最も怒りを感じるのが、手術を強制された多くの女性がアンデスやアマゾンの先住民族だったということだ。
彼女たちは手術の際に「子どもを多く欲しがるなんてまるでウサギやクイ(アンデスの食用ネズミ)みたいだ」などと医師や看護師から差別的な言動を受けた経験を持つ人が多い。
また手術を実施した数は「生産高(Producción)」と呼ばれていた。
信じがたいことだが、政府の役人や医療関係者の中には”先住民族は我々より下等な存在だ”というおぞましい考え方が広がっていたのだろう。
強権的な政府からノルマというプレッシャーが与えられ、そこに人種差別が介在することで、人間を人間とみなさず「数」としか考えない風潮が蔓延し、人権を無視した暴力的な措置が歯止めなく進行する。
ペルーの強制不妊手術のケースは、人間の醜悪で恐ろしい部分を僕たちに伝えてくれる。
謝罪・補償は現在まで行われず
強制不妊手術はその後、以下のような経過をたどることになる。
2000年 フジモリ氏が大統領職を放棄、日本へ亡命
2002年 ペルー保健省が不妊手術政策についての報告書を発表(トレド政権時)
2007年 ペルー警察が民間人殺害事件(強制不妊手術とは別の事件)などの容疑でフジモリ氏を逮捕
2009年 フジモリ氏に禁錮25年の有罪判決(翌年に判決確定)
2015年 ペルー政府が強制不妊手術があった事実を公式に認める
2016年 不妊手術被害者の全国団体ANPAEF発足(各地の被害者団体を統合)
2021年 ペルー議会が被害者に補償を認める法律を制定
2022年 ペルーの裁判所が強制不妊手術事件についてフジモリ元大統領と当時の保健大臣3人の起訴を認める
事件から約20年後(2015年)にようやくペルー政府は強制的な手術があったことを公式に認めた。
そして2021年に先住民族の国会議員タニア・パリオナさんらの尽力により初めて被害者に補償を認める法律が制定される。
だが補償を行う方法については議会で合意に至っておらず、いまだに被害者の女性たちは謝罪も補償も一切受け取っていない。
釈放されたフジモリ元大統領 裁判は白紙へ
昨年12月、憲法裁判所の命令によってフジモリ元大統領が釈放された。
(2018年の最高裁判所による「恩赦取り消し」を無効とする判断)
刑期を10年以上残した釈放にペルー国内は紛糾している。
現大統領が延命のために議会のフジモリ派と結託したという見方もされている。
いずれにしても今回の決定によって、おととし起訴の手続きに入った強制不妊手術に関してのフジモリ氏の裁判は白紙に戻ってしまった。
僕個人としては、被害者の感情を考えるとやりきれない思いがする。
人生を台無しにされ、謝罪も補償もないまま30年を過ごし、長年の戦いの末にやっと裁判にまでこぎつけたというのに、容疑者が突然自由の身となる。
フジモリ氏がショッピングモールを笑顔で歩く様子を、彼女たちはどんな思いで見ているのだろうか。
不条理という言葉では言い表せない。
参考文献
NHK「国際報道」ウェブサイト 2022年
古屋哲「不妊手術推進政策」2004年、『フジモリ元大統領に裁きを』所収
ペルー保健省「リプロダクティブヘルスおよび家族計画全国プログラム1996-2000」1996年(フジモリ政権による当初の計画)
https://bvs.minsa.gob.pe/local/minsa/315_PROG66.pdf
NGO「ラテンアメリカ・カリブ女性権利委員会」(CLADEM)による調査報告書「Nada Personal」1999年
https://1996pnsrpf2000.files.wordpress.com/2011/07/cladem_nada-personal.pdf
ペルー保健省による最終報告書 2002年
https://1996pnsrpf2000.files.wordpress.com/2011/07/informe-final-comision-especial-aqv.pdf
被害者の全国団体「AMPAEF」ウェブサイト